難攻不落の金山城(宮城県丸森町)

かねてより興味があった、難攻不落の金山城へお邪魔することに。
時は戦国、丸森町金山城は相馬氏と伊達氏との間での“国境の城”の一つとして、激しい争奪戦の舞台となった場所で、戦国時代の永禄八年(1565)に、相馬氏家臣の藤橋紀伊が築城したと言われております。
当時、金山・丸森・小斎は相馬軍の勢力下にあったとされています。
天正はじめ、伊達氏が反攻し小斎・丸森を奪回しましたが、金山城を落とすことができず、攻防を幾度と繰り返し、天正12年(1584)にようやく相馬・伊達氏の間に”和睦”が成立したとされています。
戦国時代に建てられた膨大なお城や要害の中で
一度も陥落しなかった稀な城。金山城。
移住して、興味を持ったのがこの”難攻不落の城”ということで登頂することに。


金山地区を巡る際、忘れてはならないのが、”ふる郷かるた観光マップ”である。
金山地区の様々な名所に立て看板が掲示されているので、ぜひ、全て、歩いてまわってコンプリートしてもらいたい。
しかし、なぜ、金山城は一度も牙城を崩すことがない、難攻不落の要塞と呼ばれていたのでしょう。筆者は足を進めることにします。

わずか標高117メートルと侮る勿れ、傾斜角の急さに驚く。
おそらく、ここで多くの伊達軍も一網打尽になったのだろう。
この急な坂で、上から攻撃されたら、手も足も出ない。
また、攻撃ができる方角と、道筋が決まっているので、一網打尽にされてしまう様子が目に浮かびます。


写真だとわからないですが、かなり急で、当然、斜面は土なので、かなり攻めにくい。
守りの強さの要因は色々ですが、うまく地形を活かしながら、敵陣の動線を作れているのだと、実際足を運んで実感できます。
そして、何より、当時のままの地形がそのまま残っているということが価値があることなのではないでしょうか。

やっとお目当ての石垣に到着。
この時点で、太ももと、ふくらはぎに乳酸が溜まり、当時鎧と武器を持ってここに来たら、相当な絶望を感じたのではないかと察します。石垣の上に敵軍が待ち構えているはずですので。

山頂に設けられた、看板の画像。

山頂から、阿武隈平野を見下ろす。
きっと、政宗も、ここから阿武隈平野を見て、いたと思うと感慨深い。
歴史が面白いのは、写真や映像で残っていない景色や、像を
頭の中で文脈を繋ぎ合わせて、自分の中で思いを馳せていく行為そのものであると私は考えます。はっきりとしない文脈や、言い伝えによる曖昧さが憶測を生み出し、議論を起こします。
((い))石垣に 昔を偲ぶ 金山城 (カルタより)
そして、金山城跡の碑文
武士(もののふ)の箙(えびら)に おひし弓はりの 月のみ残る城山の空
明治維新によって300年続いた武士の時代も終焉を迎え、刀を置き、それぞれの生きる道に奔走した時代。こうして、城址は終焉を迎える。
伊達政宗初陣の地。難攻不落の金山城。
宮城県丸森町には歴史がたくさん眠っていて、史跡が私たちに何かを訴えているような気がします。
(続く)